福島、復興への長い道のりと矢口さん

2011年3月11日、東日本大震災が起こり、福島県も最大で6強の震度を観測しました。

そして、浜通りは津波の被害が出ました。

予想もしていなかった大きな津波に襲われ、東京電力福島第一原発では水素爆発により、すくしま県内外に放射能をまき散らしてしまいました。

地震の被害だけでも大変なのに、原発事故まで引き起こし、福島県はいったいどうなってしまうのでしょうか。

原発事故後県内外にたくさんの人々が区域内区域外の避難をはじめました。

それに伴い人口の流失も始まりました。

一時期は県外避難者が10万人を超えた時期もありましたが、県は必死になって復興へ向けて模索を始めていました。

放射線量が高い中通りの小中学校、幼稚園保育園の園庭の砂を表面から削り取り、新しい砂に入れ替えたり、県民の自宅の除染作業も行われていました。

もちろん、警戒区域に至っても避難解除が示されると除染作業員が必死になって除染活動をしていました。

原発内でも放射能がこれ以上漏れないように、必死に戦っているようです。

また、18歳未満の子供たちに対しては甲状腺検査が始まりましたが、検査の結果として甲状腺がんと判断された子供もいるようです。

県のほうでは原発事故と因果関係はないといっていますが、はっきりとした証拠がないので、何とも言えない状況であります。

東日本大震災や原発事故から6年目に入ったいまでも、除染作業、甲状腺検査が県のほうで必死に行われています。

また、県外に避難した住民が福島に戻ってきても安心して暮らせるように仮設住宅を設置したり、引っ越し費用を負担しようとしたり、復興へ向けた県の取り組みがみられます。

年月が経つにつれて、風化されていってしまっている、東日本大震災と原発事故ですが、福島県民がフックに向けて一生懸命歩んでいる姿を忘れてほしくはありません。

手探りではありますが、県民が安心して元の生活を取り戻せるように必死になっている方もいます。

今後の復興への道のりをみなさんで見守っていこうではありませんか。

※矢口敏和について